No.13 現実と幻
我々が悩み苦しむ原因の背後には、心配・不安・恐怖などのネガテブ意識や欲望そして執着などが潜んでいる。
人の心の苦しみは、これらの中のどれかに影響を受けているのであるが、悩んでいる当人の心はその問題だけに集中している。
心の問題だけでなく、人はいつもこれらネガテブのどれかに突き動かされているのである。
このようなネガテブに染まった想いや数多くの前世の印象は、非常に複雑に絡んだ意識となって、潜在意識に厚く積もっている。
私は、意識の深みを探求しているときに、インスピレーションによってこのことに気づいた。
そして、潜在意識の理解と共にこの障害を解放していくにつれ、今までに味わった事のない、いろいろな意識的感覚が得られるようになった。
我々の日々が、出来る限り悩まず苦しまず、そしてストレスも無く生きていくことが出来れば、本当に生き生きとした人生になるだろう。
これを完全に実現する事は難しいことではあるが、自分の意識次第でかなり近づける事は可能である。
それを可能にするためにも、我々は今の生き方が当たり前となっていることに、別な「価値観」からその真偽に光を当ててみる必要がある。
この世は物であり、また世界も物を中心として動いている。
人の物に対する意識は、その「価値観」によっては自分の心と同じ位大きな比重を占めていることもある。
これは物だけに当てはまるのでなく、心にある観念や何かに対する信仰また自己の理想までも含むこともある。
しかし、このような意識に所属するものも現代の人の中には、物と同じ見方で価値判断をする人が多くなってきている。
人それぞれ差はあるが、その個人の価値観の違いはどこからくるかといえば、それはその人の精神性または潜在的自己から来る価値観しかない。
そこで我々が焦点を当て、見つめ直さなければならないところは、「潜在的自己から来る価値観」と言う事になる。
ほとんどの悩み苦しみは、この範囲の中でヒントや答えを探して迷っている状態である。
しかし我々は、いろいろな悩みや心の問題を軽減することや、またそれから脱却することもできるのである。
それはどういうことか、簡単に言葉で表せば「知らないから悩み苦しむ」という事になる。
では、「知らない」とはどういうことか。
それは、真実とかそれに導くヒントや答えであり、実際に我々の精神に影響する事である。
この世に流され信じ込んで来た人の観念は、我々の潜在意識に固定観念として根付き、そして自分の「精神的な価値観」を決定づける要素となっている。
このようなものは、文頭で述べたネガテブ意識の仲間であり、我々がこの世の物事全てを正しく真実で現実に実在するものと信じていることである。
そのように信じ、そこから何の疑いも起こらない結果が悩み苦しみにつながり、現時点の我々は、いつまでも答えの出せない状態まで当然と思うようにさせられてきたといってもいい過ぎではないだろう。
我々が信じていることの中に、どれほどの真実があるのかと疑ってもいいことである。
我々が信じてきた数多くの事に、自分をまた人間を明確に証明する根拠があるだろうか。
我々は、神の子とか魂そのものだと言われながら、どれほどの力を発揮しているだろうか。何かが間違っていると気づくしかないのである。
「自分の置かれている現実をよく見ろ」などと言う人がいる。
そのようなもっともらしいことを言う人にこそ、この同じ言葉を返してあげたい。
「知らない」ことは、正常さえ間違いにしてしまう。
このまま、この世に流されてある程度の年齢になったとき、人は誰も同じような心配不安を抱きだす。
病気の心配、今は痴呆の心配もある、それとも孤独の不安か、避けられない死の恐怖も出てくるだろう。
そろそろ、このような意識からたくさんの人が抜け出してほしいものだ。
病気も死も自分の意識の外に置き、真の生命(意識)で生きることは幸せであり、次なる自分の存在まで決定するという事を確信できれば何かが大きく変わっても不思議ではない。
「知る」全てはこれによって解決する。
「知る」という事は、単に頭で知るということではなく、納得するまで理解し、同時に信じられる自分をつくることで「 潜在的自己から来る価値観」になることである。
「知る」という事の中には、見えない世界である潜在意識的なことや霊的なことまで含む。
我々は、これまでこの見えないはっきりと証明されない世界のことを、ただ不思議とか世界が違うとか、誰もはっきりさせる事が出来なかったということで、あまりにも遠くにおきすぎたと私は思っている。
それなら、自分自身が絶対抵抗の出来ない基盤を作って見てはどうかと考えた事が、潜在意識を中心とする全意識界を自分の意識として、また一つの意識としてみる方法である。
一つということは、どんな話であっても潜在意識から他の界においても共通性がなければならないし、またその話が食い違ってもならないということである。
ある面では、推測を使わなくてはならないが、それも確実に信頼できる支えとなる多くの実践的体験や真理から出されたものである。
しかし、伝えられる事にも限度があり、無意識的な世界を話すには「無いけど在る」「在るけど無い」と言った表現になってしまうのである。
我々がある外国の知らない土地に行って、いきなり日本語で話しかけても通じる訳がない。
それと同様に、完全な霊的な意識をこの世でしか通じない言葉の意味で、それを解釈しようとしても分かる事はないのである。
「知る」とは、心からネガテブを開放することであり、真の安らぎである。
何の根拠も無いもの、うそ、間違い、勝手な思い込み、隠された真実などを知ったものが、何で真実を覆いかぶせたネガティブに振り回され、悩み苦しまなければならないのか、知ってしまえば今度は、次のネガテブ消滅に力を出すだけだ。
しかしネガテブの強力さは、潜在意識から前世にまで及ぶものである。
我々が、このネガテブから完全に逃れる事は、すぐにまた簡単に出来るものではないが確実に前進できる。
そしてこのネガテブの消化分だけ我々は、潜在能力としてまた知恵として自己の向上した意識になり使えるということである。
自分の問題解決を早め、常時精神的安定を得、知恵をもってさらに前進し、意識の潜在性から力をもたらす。
この全てが自己の「知る」という知恵である。
人はこの世界、この現実にどれほどの真実性があると思っているのだろうか。
ほとんど真実だと思っているのなら、その人は何も変われない。
また、新しい真実を作ろうとすれば、それはまた新たな現実という幻をつくるだけだ。
我々のやる事はひとつ、何かを考えつくるのではなく、自分にある「曇り」を消す事によって自己を軽くする事である。
我々はいろいろな知識を寄せ集めて頭では知ったつもりになることも出来るが、その方法では決して満たされる事が無いのである。
何かが違うという感じが、我々を落ち着かせなくするのである。
やはり、潜在意識か魂が「おまえは本当のことを知っていないぞ」と教えてくれているのか。
我々が、本当に何かが分かったと感じた時は、自然に充実感や満足感といった心からでる喜びの感じがするのである。