No.20 瞑 想 (3) 

瞑想という行為の基本的なことを述べてみる。

瞑想の姿勢に、結跏趺坐という足の組み方があるが、私は一度もこの座り方で瞑想をしたこと
が無い。
私の瞑想は、今も背をイスや壁に当ててリラックスして行っている。

それでもここまで出来たのであるから、その姿勢は関係ないと思っているが、正式な場所であ
れば私は失格である。
この点は、その人の自由で直接瞑想内容に影響することではない。

自分が落ち着く姿勢を決め、その状態で目をつぶり、深呼吸をして心を落ち着かせ、体の余分
な緊張を抜いていく。

瞑想は、このようにして入っていくが、しかし静かな状態に入るとほとんどの人は、心にいろ
いろな考えや思いが浮かんで来る。

瞑想の第一段階は、瞑想を邪魔するいろいろな考えや思いに煩わされないようにするための訓
練と言ってもいい。

これは瞑想ではないと思うかもしれないが、これを克服するということは、自己の精神強化や
制御につながる大事な事である。

我々が瞑想状態の中で、疲労をとったり、エネルギーに満たされたり、また心を拡大するイメ
ージを保持したりするためには、それを邪魔する何かがあっては出来ないのである。
その邪魔するものが、自然に浮かんで来る考えや思いという想念である。

この想念を如何に無視または支配できるかが、早く自分の瞑想に入れるかどうかの条件になる。
その障害を克服する方法は、いくつかある。

瞑想の時にそのような想念が出てきたからといって、そのようなものを相手にしなくてはなら
ないということは無い。
瞑想以外の時間はいくらでもある。

もしそのような想念が出てきたならば、それを見つめてはならない、考えてはならない、まし
てやそれに合わせて相手をすればすべて終わりである。
また、その想念が自分にとって良いものであっても、無視できなければいつまでも瞑想は出来
ない。

想念が出てきたなら、一言「あとでゆっくり相手をしてあげるから」といって無視すればいい、
電光掲示板の中で文字が流れていくように右から左へ、また左から右へと見送ればいいのであ
る。

絶えずこのような訓練をしていれば、必ず出来るようになっていくのである。


それでも、どうしてもこの想念を無視できないのであれば、いきなり熟考という瞑想に入れば
良い。

では、この場合の熟考という瞑想は、どのように行うかというと、それは無視とは逆に徹底的
に見つめることである。

無視できない想念がそんなに自分に重要な事か、また無視できない自分は何に囚われているの
か、本当に自分は瞑想をしたいのか、しっかりとした目的があるのか、などよく考えてみる方
法である。

これは、自己の「心」を調べる事で、何故出来ないのかではなく、そうさせないものは何かを
探すのである。

この熟考という瞑想法は、探求ということから言うと神秘的知恵を見出す瞑想法である。

想念を無視できない人は、このような方法によって何か自己発見でもあれば、それも一つの成
功で前進したことになる。
このどちらをとっても正しい瞑想であるから、必ず前進できるのである。

とにかく、瞑想時間のすべてに渡って、何の想念も浮かべないでやっていくということは難し
い。

大事な事は、たとえ想念が浮かんでも、またそれがちょっと気にかかることであっても、直ぐ
に自分を元の位置に戻せる力や意志を使えることである。

時間は、10,20,30分と慣れていくにしたがって、自分にあった時間設定をすれば良い。
瞑想が、十分に自分のものになっていけば、時間などは自然に調整されていくものであるから、
早く慣れることである。


ある程度慣れてきたなら、また時間の余裕があるなら、瞑想の種類を増やす。

何かの理想や宇宙の広大さや意識的感じなどを保持し、本当に静かな状態で同調して、疲労を
取っていくのである。

また、意識向上のために真理的な内容や自己を調和化したりネガティブ浄化したりするための
熟考も同時進行として重要な事である。

そして、これらの内容は、実践として実生活の中に活かせなければ何にもならない。
もし実生活の中で活かせなければ、単なる思い込み瞑想と言われても返す言葉は無いだろう。

何においても言えることだが、より早く上達するには、明確な目的を持つということである。

瞑想で注意をしておきたい事がある。

瞑想中に、何かの声が聞こえた、光や色を見た、その他の抽象的な事を含めて、このようなこ
とが起こると人は感動する。

私自身は、このようなことを数多く瞑想中に体験しているが、これらは単に一歩段階をあげる
ためのもので、決して直接神からのお告げや導きそのものではないと言う事である。

勘違いして、それにしがみつき、それを中心にした瞑想をすると決して向上する事は無いだろ
う。
もしそのような体験をしたならば、とてもいい体験として心の隅にでも置いておけばいいので
ある。

そのくらいの気持があれば、次にはもっと良いことが起こるかもしれない。
これも、瞑想における数多い不思議な体験から得た事である。


ここでもう一度整理すると、瞑想の基本段階としては、肉体的リラックスと意識的リラックス
が出来ることが瞑想の条件である。

心と肉体がゆったりとしないまた落ち着きがなければ、いい考えも見つめ方も出来ない。
ましてや、最終的な「無」という心の静謐が得られないということになる。

普段から、冷静に静穏な状態を心がければ、すべてが良い方向に転じていくだろう。

もう一つ大事な事は、瞑想をするにも順序があるということである。

正しい、すばらしい瞑想が出来る前に、知っておかなければならないことがある。
それを抜きに、何を目的にしているか分からない型にはまった瞑想をしようとするから、つま
ずくのである。

この順序が分らないから、いろいろな事がスムーズに運ばないのである。

私はよく順序と言う言葉を使うが、この世に生きている事そしてどんな高い意識レベルであっ
てもこの順序という秩序、もっと難しく言えば神の法則は誰も無視する事は出来ないのである。

その順序とは、意識レベルである。

瞑想が深くなるにつれこの意識レベルがある程度高くなっていけば、特に心理学を勉強しなく
ても、心理学に書かれていることは意外に楽に理解できるようになっていくだろう。

なぜなら、心は意識の下、要するに意識の次に来るという順序であるからである。

このように考えていくと、人間の心というものが、一つの限界ある塊に過ぎないと言う事が分
って来る。

限界を超えているものが意識であり、真に自由なものが意識である。

心には自由などない、またこの世に生きるための肉体には制限がある。
それに密接に結びついている心には、自由があるわけもなくいつも肉体という制限の奴隷にな
っているしかない。

これらのことを理解し、自分をより自由に解放し何ものにも左右されずまた影響を受けないた
めに、瞑想を通じてこれらの理解を進めていくのである。

これを適切な順序に従っていけば、無駄なく挫折することなく、向上していけるのである。

人間である以上、霊と密接に関連している以上、また神の法則の中で生きている以上、私は、
これ以外に自分を意識的に早く高める方法はないと確信している。