No.2    愛    

今回は「愛」ということですでにテーマも決めていたが、いざ「愛」について書こうとすると脳がゆが
む感じがするくらい考えてしまった。

「愛」は、今までさまざまな人によってあらゆる形の愛の表現や深層心理的な面などが語られてきた。
人間の永遠のテーマである愛の本質はともかく、愛は漠然としながらも人の意識の中に一つの観念とし
て定着している。

誰もが知っている、今まで語り尽くされてきた愛の意味を、また同じようなことをここで繰り返しても
何の意識的成長の役にも立たない。

そこで今回のテーマである「愛」は、潜在意識的、無意識的なところに位置する「愛」という意識、ま
たは感じに焦点を当てて見たい。

そして、その「愛」がどのようにして私たちの心の世界である顕在意識に表現されるか、また反対に、
その「愛」という意識的感じがどのようにしてさらに深く発展させていけるかを述べてみたい。

少し難しいが、これも私たち誰にでもある潜在意識の部分である。
これから私たちの深い意識側で感じる愛や愛の本質に迫って考えて行くが、その前に、先ず心の視点を
変えてもらいたい。

誰もが頭では解るが本質的な部分で理解できない至高の愛は、宗教の中で説かれている最高の人間愛に
も通じると思うが、しかし宗教的説明でも愛の本質の理解はもたらすことが出来なかった。

頭では愛のすばらしさを理解できても、自分自身の意識が愛のすばらしさを実感できなければ、それは
単なる感情で終わってしまう。

このことは、自分の意識が同時に愛であるということを意味するが、それは真の自己意識に関わること
で宗教はもちろんこの世の何かに関係しているというものは一つもない。
自分の意識があるのみということを知って欲しい。

人は自分の中か、それとも何か分からないが、言葉には表せられない一体感や安心感などが本当はある
のではないかと、無意識的に感じている人がだんだん多くなっているのではないだろうか。

ただ、それが何であるかが分からないだけである。
物質的な幸福を追うのも、裏返して見ればこのような意識的感じを潜在的に満たそうとする欲求の表れ
なのかもしれない。

しかし、本当の一体感や安心感などの意識的感じは、物質を通しては得られない。
本来、人の無意識は見えもしないし、又知ることも出来ないが、とてつもない何かと繋がっている。

もし私たちの無意識がそれ以上は何にも繋がっていないとなれば、それこそ何も感じることも気づくこ
ともないということになり、人間これまでとなる。
科学的な発明発見のヒントも、人の深い意識から来る。

もちろん、人さまざまだから何も感じないという人もいるが、感じないことが何もないという証明には
ならない。
だからといって、その人の意識が低いということでもない。


愛は、人それぞれ受け止め方も感じ方も違う。
その心理的意識的構造の説明は省略するが、人それぞれその受け止め方や感じ方が感情と複雑に絡む
と、より「愛とは何か」と、益々分からなくなっていく。

しかし、愛の本質は、この世の言葉の意味では答えはでない。
現代は、愛という人にとって最も大事な情でさえ、ますます希薄になってきている。

愛に満たされた言葉の本を読む。言葉上はどんなに美しく調和に満ちた表現であっても、実際はそのと
きだけでまた日常に戻ればいつもの自分がいるだけと感じた人もいるだろう。

愛の強さは表現されたものの中にあるのではなく、人の意識の中にある。
そして、大事なことは、愛は愛を受ける側が一番愛を感じるのではなく、愛を表現する側が一番愛を感
じられるということである。

愛の本質は、単純に情を表現するだけではない。
それは、すばらしい智恵であり力であり、またそれ自体を満たしていく生命である。

この世の言葉で、愛の本質は語ることも理解させることも出来ないと言ったが、しかし、方向性となる
ヒントやきっかけは得られる。

私は、結論として愛はこういうものだと決め付けることを前提としているのではなく、あまりにも漠然
として基準の持てない愛の観念を、一つの大きな意識的理解に結び付けたいだけである。

そのためにも、一つの例として今私が愛として自分の意識にある感じを、またその愛をどのように自分
自身として他と関わらせているか、そしてそれによって自分の未来をどう方向付けているかなどを述べ
てみたい。

これは無意識であるから言葉で表現することは大変難しい、また無意識であるから一般的に思われてい
る愛とは違うが、それでも私にとっては絶対意識としての「愛」である。

それは、自分の肉体的な命より重要な意識で、すべての頂点に向かわせるものである。
少しでも、あなたの参考になれば、またこの世に「愛」が広がる。

私はこの世で表現される愛というものについては、自分のいろいろな感情や心の状態によって細かく分
ける事はしない。

それは、大いなる一つの意識から分散した愛の表現としてとらえている。
個人の愛は、人、動物、物、仕事、考え、その他いろいろなものに対して愛または愛着を表現する。

その表現行為が愛しむ思いに至らず、「我」の支配に置かれればそれはただの執着となる。
愛と執着をはっきり区別できなくなると、人は苦しみ悩むことになる。

愛は、この世のすべてに浸透しているが、その度合いを低めたり高めたりするのは、その人の愛の意識
となる。それは、特別に愛の意味を意識することではない。

誰にでも愛はある。そのレベルや表現の違いは、ただ意識的理解と自己確信だけであり、それはポジテ
ィブ意識の度合いと言えば分かりやすいかも知れない。


私が意識している愛は、自分の意識の中でそれが一つの感じとしてあるだけである。
その意識の感じを言葉で表すと、十分に満たされた感じであり、ただそれに対する感謝が出てくるのみ
である。

それは自分で勝手にイメージして、信じこんでいるものではない。
簡単な表現をすれば、それは無意識的に「勝手に来る」そして「そこにある」ということになる。

そして、それはいつも自分の意識の中で振動として感じていられる。
その振動はエネルギーであり、生命である。

いつも最高の瞑想の頂点にいるような感じである。
私はこの内的余裕、この自分の魂か神からの贈り物としての感じを、「愛」として意識している。

また、このような意識的感じは一定の決まりきった感じではなく、自分の意識がさらに無意識に向けそ
の場に入り込むほど強くなっていく。

これは、智恵であり力であることを感じる。何故ならそれは自分にある潜在的能力の開発を早く推進さ
せる働きがあるからである。

潜在意識側から見つめることが、この世の矛盾や葛藤となる原因をほとんど理解できるようになるだけ
でなく、無智によるネガティブも消して行けるようになる。

この満たされた意識的感じ、そしてその先に導かれる意識的な喜び、このすべての満たされた感じが私
の意識的な「愛」である。

そして、この意識はこの世のどんなものによっても、崩されることはない。

このような意識的感じがどんどん拡大するにつれて、自分のこれまで生きてきた過去の意識もよく把握
できるようになり、そしてそれは低い段階の意識となっていることが完全に自覚できるようになる。

この繰り返しで自分の意識そして愛は力強いものとなっていく。
この世の愛は、このような世界の愛が表現されたものである。

愛は潜在意識から見つめるとよく分かるものである。
それは、人の心も同時に潜在意識側から見つめるからである。

このほとんどの心を内包している意識は、その広大さの故言葉では説明できない。
今、私の感じている愛も、厳密に言えば完全な愛ではない。

完全は神であり、神は愛であることを見つめていくと、宗教的な意味でイエスや釈迦が言っている「愛
」や「慈悲」の真の意味にも少しは近づけるのでないか。

私たちは、真理に近づくしか本物を知る方法はないのである。
もちろんその手段は、思考ではなく意識や意識の感じを通してである。

今私が感じている愛が誰にとっても同じ愛だとは言わないが、しかし表現は違っていてもこのような意
識に入っていくという点では、真理的に見ても間違いはないと思っている。


私はこの意識、または愛の感じを生命エネルギーとしているが、ではそれをどのようにしていつも意識
していられるかを述べてみたい。

それは、意識で感じる振動として、一般的に知られている波動とは区別している。
振動も波動も一緒だと思っている人もいると思うが、私はあえて振動をポジティブ意識以上、そして波
動を普通かネガティブ側として説明するために区別している。

「気」によるヒーリングは「気」の波動を使い、「愛」によるヒーリングは意識的振動に合わせるので
あって「気」である波動は一切使わないということからでも理解できると思う。

その振動はいつも私の頭の中で鳴り響いている。こういうとそれは耳鳴りだと言う人もいるかもしれな
いが、その違いくらい分からなければお粗末すぎるだろう。

表現しにくいが、その振動の感じを言葉にしてみると、もし1ミリくらいの音色のいい小さな鈴がある
とするなら、それが1千個くらい集まって同時になっているような脳の深部に染み渡るような振動であ
る。

いくつもの美しい、心地いい感じの振動が頭の中(意識の中)でいつも感じていられる。
それに集中してその振動を高めればエネルギーである生命力を感じ、体も気持ちもすっきりとさせるこ
とも出来る。

この振動はいつも感じていられるが、自分の思いがネガティブな方向に行くとそれはだんだん減じてい
くだけでなく私の心身の調子も落ちる。

逆にポジティブ意識方向に集中していくと、その振動はますます高まって行きエネルギーを感じていら
れる。

このようなことからでも分かるように、エネルギーに満たされていたければポジティブ意識方向に、体
調がいつも良くない状態であればネガティブ側にいることになる。

少なくてもいつもネガティブ側にいれば、エネルギーの量は健康的にも満たされていないということに
なる。

このことはいろいろな根拠を持って説明できることであり、またこれを無視すれば私自身の死は早い。
何故なら、私はこの生命力を入れられるから生きていられるようなものだと思っているからだ。


私はこの意識状態を高めて、さらに深い無意識状態に入る瞑想をする。
その時、全く新たな意識的感じを知る。

私はそれを自分の「愛」の本源としている。
それは、私が想像するのではなく、見るのでもなくまた聞くということでもなく、それはそこにある。

それを無意識の中で感じているだけであるが、決して自分の感覚は使わない。
それは限りなく透明であるがこの世で知る透明ではない。

そこには透明以外何も無いが、しかし、絶対的な力があることを感じ、私の無意識はただ圧倒される。
その力とは、これを知れば絶対的な智恵を得るといった感じである。

しかし、まだその奥には行けない。
私たちが意識的に何かを知るには、今見ているものの奥に達しなければ今見ているものを自分のものに
することは出来ないのである。

ほとんどの人は、これを思考でやろうとするから出来ないのである。
要するに、その感じというものは、自分の意識を全く動かすこともなくただ感じることの出来るそこに
「在る」ものである。

私はその正体は何であるかは知らないが、それに近づいていくことが自分の愛という意識になって行く
ことは証明済みである。

このようなことは、前に述べた振動の例だけでなく、いろいろな無意識的体験と振動体験から意識して
きたことである。

このようなことを疑問視したり否定したりする人もいるが、その人の意識的未来を考えると憐れみを感
じる。
私の知っている神秘は、この程度ではないからこのようなこともはっきり言えるのである。

実際のところ、この意識が神であっても愛であっても魂であっても、何でもいいのである。
私はまだ完全なる答えを知らないのであるから、勝手に決め付けたくもないのであるが、しかし、どう
しても最高レベルの顕現に近づきたい気持ちは強い。

私はこれからもこの意識の中にどんどん近づいて、それから知り得たことを分かりやすい言葉であなた
の意識的成長のヒントになるように話して行きたいと思っている。

今私がこのHPで行っている療法は、すべてこのような感じから得た事を利用して行っている。
また、このような感じは意識の通る順序を示すことで、そして自己訓練によって感じられ成長させられ
るようになると考えている。

そのためにも、自分の愛を確立することは必要である。
ネガティブな愛はない。しかしこの世の言葉には真理を乗せられないので、ポジティブな言葉も悪用さ
れる。

「愛」とは何か、実際はその人の意識にある絶対的なポジティブ意識である。
それは宗教だけでなく、何か本物に目を向け自分の心、意識を高めて行くようになれば、いずれこのよ
うな世界に出会うしかないだろう。

それは、言葉ではない。意識である。
それはすばらしい自己の魂の世界であり、創造神の一番離れたところであってもその意識に触れること
である。


この世は、内的意識の世界から見れば非常に狭い世界でしかない。
愛の意識から見れば、この世の意識は包囲された知られた世界であり、すでに物的人間の意識はこの世
の限界と同次元として知られていることになる。

このような愛の意識がどうしてネガティブ性に逆転されなくてはならないか、また逆転されることなど
考えられるであろうか。

これが私の確信しているポジティブ意識であり、「愛」の意識である。
肉体が死んでもこの意識は失うことのないようにしなければならない。
意識には死はないからである。

死のない私たちの意識には、いつでも自分の居場所が用意されている。
すべて、自己意識の段階による自己意識の「場」ということである。

聖書的に言えば、真の「愛」である意識の場所が、エデンの園である。
前回のアセンションの意味も愛やその意識から考えると、どういうことかが理解しやすいと思う。

「愛」とは何かということを表現するためにこのような話になってしまったが、決して余計な話をして
いるつもりはない。

一般的に、このような意識に成長していくことは難しいと思うかもしれないが、実際はこのような意識
が難しいのではなく、その前に自分自身の本当の思いや意識を知ることが出来ないため、難しく見える
のである。

ポジティブは単純。ネガティブは複雑そして混乱である。
限定、強制、束縛。自由に進められない方法は、意識が窒息する。

すべては自分の意識の中で行うことであるから、誰にも知られることもなく、何かの団体に入ることで
もない。

もし、至高に達する意識の道が人の中に初めからないのであれば、それはどんなことをしても無駄であ
る。

しかし、人間である以上すでにその道は本来誰にでも備わっている。
それは意識の回路ということで表現してもいいと思うが、その回路が詰まっているため思うように先に
進めないだけである。

その詰まりの正体がネガティブということであるが、それ自体の理解が増していけば、後はやりやすく
なっていくだろう。

ネガティブとは何か、はっきりいってこの世のほとんどと言ってもいい。
こういうと誰もが疑いたくなるものであるが、そのくらいのことは言える。

かえってそういう見方が出来るほど、意識の成長はスムーズに行く。
そうなれば、これからの自分の新意識である「愛」も見つめやすくなる。

困難は、ネガティブとポジティブを混同させて考えるからである。
これは,完全に別な意識であることを知らなければならない。


もう少し私たちの知っている愛の意味で考えて見たい。
自分で表現する愛においても、それが完全だと思っている人は誰もいないだろう。

相手からの愛を感じるにしても、ただ私たちはその愛が真実だと信じていたいだけかもしれない。
それは愛でなくてもいいのだが、とにかく見えないがまた意識でも気づかないが、誰の意識にも無意識
的に「本物の何かがあるはず」と感じているのである。

結局、「愛」とは成長した自己意識で理解できるものである。
愛を外から知ることでも、何かを付けることでも、またいつまでも追い求めるものでもない。

自分が愛の確信をもつことによって、特に何かを意識しなくてもそれは自分である。
それは、余裕であり、親切であり、愛である。

それは、義務でも無理をすることでも我慢して行う行為でもない。
では、自分の悩みや問題に対しては、それが「愛」という意識の中ではどのように変わるだろうか。

私たちの意識が変われば、今まで自分を苦しめていたネガティブの姿は変わってしまう。
意識が変わるということは、今までの対象の見え方も感じ方も変わってしまうということを意味する。

もし、自分の過去を振り返って、自分の成長によって見方が変わったものがあれば、この意味も理解で
きるだろう。

それが悩みや問題としてではなく、そのようなものから出る余計な感情的なものは消え、その骨組みだ
けが見えてくるようになる。

それが見えてくれば、後はどのように解体していくかになるので、それは混乱した悩みの状態から問題
解決の思考の場に移される。

冷静に客観的に見て、適切な方法と時間をかけて処理していくという考えに変えられる。
ただ迷っているだけでは、何も解決することもなくいいアイデアも浮かばない。

結局、私たちの深い意識においての理解は、愛であり、智恵であり、自分の本質であるということであ
る。

すべての意識は本来一つである。
その外は、ネガティブの嵐が吹き荒れているに過ぎない。
内にいて外を観察するか、それとも外で、これが人生といって生きていくか。

どちらも人それぞれの自由であるが、このことは人生を振り返ったときにより身に染みるであろう。
少し難しいことだが、私たちは結果で生きているのであって、決して自己の本質部分である原因意識に
は触れていない。

それでは、ただいつまでも迷いと混乱の中で苦しむだけである。
物質的な幸せも必要だが、まず自分の思いがいつもその本質に触れていられるなら、決して自分を見失
うことはないのである。

幸福感も不幸感もすべては意識の中の感じを自分が表現しているだけである。
愛は意識、意識は自由、自由は愛である。

私たちの意識は誰にも左右されてはならないし、そうなることもない。
潜在意識側にある愛は、さらに奥側の愛をいつも意識していることになる。

永遠の愛という言葉もあるが、やはりその真の意味は言葉では永遠に語られることはないだろう。