No.11 心の変換 (2) 

心を知るには、いろいろな観点から説明できるが、ここでは、潜在意識に関連させて、現実的
な心から心の限界まで、心の特性と本質的なものを説明してみたい。


 ■ 心は、感情的なことや不調和に簡単に入りやすい

私は自分の心に全面的な信頼をおいていない。
逆に、いつも注意をして心の動きを観察しているくらいである。

もし私が心の動くままに生きなければならないとしたら、人生は終わりだと思うだろう。

それは何故か。心に出て来るものや心を動かすものが何であるかが分かると、とてもそんなも
のに自分を任せておけなくなるからである。

心は知らない。知らないことが多い。そして今のままでは完全に知ることも出来ない。
このような思い持っているのは、私だけではないだろう。

しかし、それでも自分の心である限り、そしてこの世に生きている限り、人は思い通りになら
ない自分の心によって惑わせられる。

苦しみの原因がある限り、それを排除しない限り、いつまでも何も変わることはない。

その中でも、感情的になって自己を見失ったり、不調和な事が何であるか気が付かなかったり
するのは、同じ苦痛を繰り返す人生になる。

人は、今の人生内で心の変換に成功すれば、確実に最高の幸福感を得られるだろう。


 ■ 心はいつも動いている

我々が勉強や仕事、また何かに夢中になっているときは、心もある程度集中させる事はできる
が、それ以外のときは、心というものはいつもふらふらし、あちらこちらと動き回るものであ
る。

ふらふらし動き回るとは、心の中にいろいろな想念を次から次へと入れさせるという事である。

人はこのような心の動きのままに自分を従わせ、その後をくっ付いて行く限り、いざというと
きに集中力を発揮できず、また必要な判断も出来なくなるのである。

このような心は犬と同じで、自分勝手にあちこち行かないように、心に首輪をつけ、ある一定
の範囲内にとどめておくように紐をつけておかなければならない。

我々は、自分の心を一定の範囲にとどめて置くか、動かないように躾けをして置かなければな
らないのである。

自分をコントロールする自己制御心は、大きな力である。
これは、理解による意識であって、我慢であってはならない。


 ■ 人は、心を何も考えない空白状にしておく事が苦手である

人は、絶えず何かを思っていなければ不安になる癖がついていると言ったほうがいいかもしれ
ない。

前章(心の変換 1)で述べたが、1分間心を何も浮かべない空白状にしておく事は以外に難しい
ものである。

今、あなたがこれを出来るのなら、高度な瞑想に入る素質があると思っていいだろう。

心を空白状にすることは、瞑想を積む事によって出来るようになるが、それは同時に体をリラ
ックスさせ疲労回復をもたらす事にもなるのである。

瞑想についてはいずれ詳しく述べたい。


 ■ 心は、映画のスクリーンのようなものである

自分の心に浮かんで来るすべての想念は、この心のスクリーン上で映像となって見える。

心のスクリーン上のことは、自分そのものであるからそれ以外の事は何も考えず、その現われ
どおり行動するか、それとも客席から自分自身を客観的に見つめるか、このどちらにいるかで
自己の向上に大きな違いが出てくる。

自己を客観視する注意力は、感情的になる自分を抑え、冷静で理性的な自分に変えていく。

自分が行動しているときや何かを考えているときなどに、同時に別な角度から自分自身を見る
ことは、ほとんどの人が行っている事だと思う。

それを自己の心や意識の本質に迫る時にも適用させるのである。

そこには、いつもの自分とは別に、自分を客観視または監視する意識的自己がいつも登場する
ことになる。

その意識的自己は、古い自分から脱皮した新意識の自己へと向上していくのである。


 ■ 心は物である

物であるというのは、物質的な部類に属するという事で、意識とは異なるということである。

人の心にある思いは、波動や気のように非常に感触的に感じられる事がある。

心の軽さや重さを意識的に感じるのも心であって、特にネガテブな想いは、「気が重い」とい
った感じがする。

心は、肉体的なことを五感から感じ、認識しなければならないことを考えると、より物質的に
近くなければならないのである。


 ■ 心は、潜在意識以上の世界は分からない

心に限界がある以上、思考では理解出来ないということである。

心は、想念の入れ物として扱う。

私は、心以上に広大な無意識を、物質的な答えしか出せない心には理解できないという結論に
達し、意識を重点を置いてきた。

我々は、心から離れ意識的に無意識に入って行くのである。

またそれは、物的と霊的の現われの違いからも言える。


 ■ 人が抱く「感じ」というものは、意識である

心は、人の気などを感触的に波動として感じるが、それは想念の波動である。

意識的なことになると、それは感じというより振動の違いによって意識的に理解するように変
わる。

さらに無意識的から霊的になるとその理解は振動を超え、直感的にそのことが「分かった」と
いうことだけで進んでいく。

これはインスピレーションとも言える。

この「分かった」ということは、既に自分の意識の中に答えが入っている事であり、それを心
の中で取り出して改めて理解納得していくのである。


 ■ 心は、知らない事や答えの分からない事にとらわれる

この特性は、我々が心の特性において知っておかなければならない事の中でも、特に重要であ
る。

我々の回りには、本当に知りたい事でも分からない事や知らない事ばかりあり、しかし、それ
を考えずにいると余計に心配不安になる。

そして、それが取り越し苦労やストレスに変わり、人によっては恐怖心を持つ事になって心や
体の病気になっていく。

我々人間の心を落ち着かせなくしているものは、心配や不安を回避しようとする想いではない
だろうか。

我々がもし、心配不安を取り除ける方法を理解していければ、心も静かになることだろう。

結局心が騒ぐ原因は、自分自身に関わる事を含め、人生や世界そして死に対する漠然とした心
配、不安なのである。

人は、知りたいのである。知らない不安より早く知って解放され楽になりたいのである。
だから心は、動き回る癖がついてしまったのかもしれない。

心は、心の範囲を知り潜在意識と同調することによって、意識化していくのである。

最終的に心というものは、我々の意識的な感覚においてはっきりと、自分から分離させた状態
として把握できるようになる。

心を物として見ることは、心の限界を知る事であり、この世の限界を感じる事であり、さらに
真の世界に入るスタート点に立つことでもある。

このようなことを単なる想像にしておくのは、自分の中にある宝を手付かずにおいて置くよう
なものである。